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東京地方裁判所 昭和37年(ワ)8879号 判決 1966年2月15日

原告 山下甚之助 外五名

被告 国 外一名

訴訟代理人 古館清吾 外六名

主文

一、別紙目録記載二の(一)、(二)の各(ロ)の土地につき原告山下竹吉が、同三の(ロ)の土地につき原告水島卯之吉が、同四の(ロ)の土地につき原告前田源七が、同五の(ロ)の土地につき原告前田源吉が、同六の(ロ)の土地につき原告前田徳太郎が所有権を有することを、右各原告と被告らとの間において、それぞれ確認する。

二、被告らは、右各原告のその所有する前項記載の各土地に対する使用を妨害してはならない。

三、原告山下甚之助の被告らに対する請求を棄却する、

四、訴訟費用は、原告山下甚之助と被告らとの間においては、被告らに生じた費用の六分の一を原告山下甚之助の負担とし、その余は各自の負担とし、その余の原告らと被告らとの間においては、全部被告らの負担とする。

事実

第一当事者の申立

原告ら訴訟代理人は「一、各原告と被告らとの間において、別紙目録記載の各同の土地につき各原告が所有権を有することをそれぞれ確認する。二、被告らは各原告のその所有する右各土地に対する使用を妨害してはならない。三、訴訟費用は被告らの負担とするとの判決を、被告ら訴訟代理人は「一、原告らの請求をいずれも棄却する。二、訴訟費用は原告らの負担とする」との判決を求めた。

第二当事者の主張

各土地の所有権の帰属

イ、原告山下甚之助関係

(請求原因)

別紙目録記載一の(ロ)の土地(以下A土地という。)は原告山下甚之助の所有である。

(答弁および抗弁)

A土地がもと原告山下甚之助の所有であつたことは認めるが、被告新島本村(以下被告村という。)は次のとおり同原告より右土地の所有権を譲受けた。

一、A土地は現在村道第一一号環状線道路に含まれているが、右道路は大正二二年に正式に村道となり、そのころの幅員は二メしトルないし四メートルであつた。

二、昭和八年ころ、輸送機開の急速な進歩と、産業開発ならびに観光施設のための必要から、右道路の拡張変更がしきりに要望されるに至つたが、他面昭和八年度東京府農山漁村振興土木事業の認定を受けて府補助による道路工事遂行の気運が高まつたので、そのころ被告村は、右拡張変更工事に要する道路敷に関係を持つ土地所有者と協議した結果、幅員を五メートルに拡張することとし、その拡幅ならびに道路の付替に要する私有地面積の合計数を該当土地所有者数で除した平均面積(七坪四合三勺)までは各自被告村に対し寄付すること、右平均面積を超過する分については坪当たり七〇銭の割合で補償金を給することについて土地所有者の承諾を得、ここに被告村は拡張変更に要する道路敷部分の土地所有権を取得した。

三、ところで、昭和八年以前の前記環状線道路は、原告山下甚之助所有の別紙目録記載一の(イ)の土地(以下A'に通行し得る歩道になつていたので、この軌道敷を利用して、この付近においては右環、状線道路の一部を付替えることにした。

四、原告山下甚之助は、A'大正二年三月三一日、訴外高橋常次郎外三名に軌道敷地として賃貸していたのであるが、同人らは軌道に代る索道(ケーブル)を計画し、昭和八年にはこれがほぼ完成の域に近づいていたので、同原告は右賃貸土地の一部を含む約三五坪の土地につき、道路付替に必要な敷地として被告村にその所有権を移転することを承諾したが、そのうち賃貸土地に含まれない二四坪九合の部分(幅員三・六メートル、延長二三・八メートル)は無条件に、賃貸土地の、一部であるその余の部分にづいてはケーブルが完成し、賃借人から返還を受けたときに所有権を移すということであつたところ、間もなくケーブルが完成し、被告村はこの部分の所有権も取得した。このようにして被告村がその所有権を取得した右の約三五坪の土地がA土地である。

五、なお、同原告は当初無償寄付基準面積を超過する分については補償金を受けることを承諾しながら、補償金の支払期に至つて金銭に代えて代替地の交付を要求したので、右補償はしばらく懸案となつていたが、被告村は昭和一三年三月三〇日村会の議決を経て、同原告の提供土地約三五坪より前記基準面積を越える部分の代替地として、同原告の住宅前の村有地二五坪(同原告所有の新島本村六八五番地の土地の南側に接する、南北約一・三二間、東西約一九間の長方形の土地)を供与した。同原告は現在右の、かつての村有地を占有使用しており、かつ、この問題について今日まで何ら異議を述べなかつた。

六、被告村は昭和八年八月村会にはかり予算の承認を得て右道路工事に着手し、翌年完成した。

A土地については、昭和八年中旧軌道に沿い、直ちに所有権の移転を受けた土地(原告山下甚之助が賃貸していなかつた部分)に幅員三・六メートルの村道付替工事を行ない、その後前述のとおり軌道敷部分の所有権も取得したので幅員を五メートルまでに拡幅整地して今日に至つている。(昭和三六年には被告村が道路を改修したに過ぎず、その拡張はしていない。)

また、前記環状線道路は昭和一六年五旦三日東京府告示第も七七〇号をもつて、村道としての府費補助道に指定された。

(抗弁に対する原告の答弁)

一、抗弁第一項のうち、A土地が環状線道路に含まれている事実を除き、その余の事実は否認する。

二、同第二項は否認する。

三、同第四項のうち、被告村がA土地の所有権を原告山下甚之助から取得したとの事実は否認する。

同原告はA土地を大正初年から昭和二九年まで引続き訴外抗火石工業株式会社に賃貸しており、同会社はその間ケーブルを使用したことはあつたが、ケーブル使用中も軌道はそのまま残つており、同会社は昭和一九年になつて再び軌道を使用するに至り、結局軌道が撤去されたのは昭和二五年ごろである。同会社が右土地を賃借中、一時的にもせよ軌道を撤去したり、最初の位置と異なる場所に移設したことはない。

四、同第五項は否認する。

五、同第六項のうち、昭和八年村会にはかつて工事に着手し翌年完成したこと、府費補助道に指定されたことは不知、その余の事実は否認する。

軌道敷地は幅員約三メートルであつたが、昭和三六年三月以降、原告山下甚之助の承諾を得ずに被告村が工事を行ない道路を拡張した結果、五メートルの幅員になつたのである。

ロ、原告山下甚之助、前田徳太郎を除くその余の原告ら関係

(請求原因)

一、別紙目録記載二の(一)の(イ)(以下B'

同二の(ニ)の(イ)(以下C'同三の(イ)(以下D')、同五の(イ)(以下F'ている。)、各村民の個人所有となつた。

右山林等は地租改正に伴なう官民有地区分に当たり、名目上は官有地となつたけれども、実状と異なるので、その訂正を求める意味で、明治一六年個人所有として下附願が提出され(下附願は新島本村民全体から提出された。)、同一九年認可されたものであつて、右認可という形式で新島本村民の右山林等に対する権利関係が、その実態に即して総有(後述する、原告前田徳太郎所有の土地を含むかやおい地については明治一〇年の分割は行なわれずに総有のままであつたから、明治一九年にはかやおい地は総有であることが確認されたのである。)および個人有(原告前田徳太郎、山下甚之助を除くその余の原告ら所有-地を含む土地について)として国家法上も確認された。

二、原告前田源七、前田源吉の両名は、その父祖が右のとおりE'したものである。

三、原告山下竹吉はB'訴外山本善之助より、C'た。

原告水島卯之吉は、D'六日買受け、その所有権を取得した。

右の売主らは、前述の旧割によつて所有権を取得した者(またはその相続人もしくはこれらの者から売買によりその所有権を譲受けた者等である。

(答弁および抗弁)

一、請求原因第一項のうち、明治一〇年ごろ分割されたことは認めるが、旧幕時代から新島本村の本農家の総有地であつたことは否認する。

(一) 新島は江戸時代は江戸代官の直轄地として畠役所が設けられていたが、明治維新後は韮山県、足柄県、静岡県を経て明治一一年東京府に編入され、同三四年東京府大島島庁が設置されるに及んで同出張所が設けられ、大正一二年に至り島しよ町村制の施行もみるに至つた。

明治二二年に一般に町村制が施行されたのに比べて町村制の施行こそおくれたが、右のように新島においては明治維新後も中央権力の支配下に村としての組織が整備され、これにより村政が執行されていたのであつて、漸次国家機構の一部として法人たる実体を形成してきていた。(明治一四年には東京府知事は「島吏職制」を定め、地役人等の島吏について村における行政機関としての性格と職分を明らかにしている。)

(二) ところで、B'9;、E'向山一二九九番、同一三〇、〇番の山林(合計八九町三畝二歩、以下乙山林という。)は、明治維新以後は官有地として右行政機構の管理下に置かれていたが、明治一六年新島本村から東京府知事に対し「官有地御下附願」が提出され、明治一九年九月二一日同知事より前記のような性格を有する新島本村に下渡された。

(三) じ来右両山林は新島本村の村有基本財産として村当局により管理処分(立木等の払下げ)されてきたが、甲山林のみは原告前田源七らの父祖を含む村民達に分割払下げられることになつた。しかし、すでにそのころには立木の伐採運搬等のために甲山林および乙山林を通ずる道路が設けられ、乙山林に達するためには甲山林中の右道路部分を通過するほかに通路もなかつたので、この道路敷部分(すなわちB、C、D、E、Fの各土地の一部を含む。)の所有権を村有のままに保留して甲山林の分割払下げが行なわれた。

(四) そして右道路は大正一三年に諮問および認定の手続をとり正式に村道となつた。(村道第一三、一四号向山線であつて、B、C、D、E、F各土地の一部は二の一部に含まれる。)

二、同第二、三項のうち、原告らの主張するような各相続および売買の事実は認める。なお、B、C、D、E、F各土地を除いてB'

三、前記向山線道路は、昭和一四年以前はリヤカーがようやく通行し得る程度の幅員であつたが、そのころには島内にリヤカーが増え、これを向山地区の生産物等の搬出に利用するため右道路の拡幅、整備およびこう配の変更等の必要に迫られ昭和一四年に原告前田源七らを含む道路敷関係の土地所有者を村役場に集めて道路敷地の寄付方を要請したところ、当時は生産物を人が肩で運搬しその不便をかこつていた折柄とて誰一人異議を唱える者なく喜んで寄付に応じ、これによつてその拡幅部分の所有権は被告村に帰属した。

そこで、同年中より従来存した道路の拡幅、整備およびこう配をゆるやかにするための道路の付替等の工事を始め、昭和一九年島内に軍隊が駐とんするときまでに現在の道路とほとんど同じ位置に幅員二メートルないし三メートルの道路を完成させた。

四、その後昭和一九年に、陸軍駐とん部隊の要請によつて幅員を五メートルに拡張することになり、拡幅部分の敷地所有者より寄付に関する承諾を得てその部分の所有権を取得した上現在の五メートル幅にまで拡幅工事を遂行した。

五、右向山線道路は昭和二三年三月二五日、都告示第一四四号の四をもつて村道として東京都土木費補助道に指定された。

六、なお、昭和三六年には被告村が道路部分を改修したに過ぎず、その拡張はしていない。

また、原告前田源七らは、いわゆるミサイル基地に関連して本件紛争が起こるまでは向山線道路の敷地について所有権を主張したこともなければ何らかの異議を述べた事実もない。

(答弁に対する原告らの反ばくおよび抗弁に対する原告らの答弁)

一、答弁および抗弁第一項について

(三)について

行政村である新島本村がその基本財産として甲山林等を管理処分していたというのは全く事実に反する。まして甲山林は個人有地であることが確認されたのであるからなおさらである。また分割は明治一九年以前であることは明らかであるから、下附された山林について、道路敷部分を村(行政村)有として残余を分割払下げたとの被告らの主張も事実に反する。

本件甲山林の一部に踏分け道が通つていたのは事実であるが(旧道と称されている。)、これは私道であつて、村民の生活のために互いに利用しあつていたものであり、車両の通行は不可能である。(なお、この旧道は現在も村民が通行しており、向山線道路とは別個のものである。

(四)について

右の旧道についても、本件向山線道路についても(後述のとおり、これは昭和一九年に新設されたのであるから大正二二年に手続をとり得るはずがない。)諮問および認定手続はなされていない。

二、同第三、四項は否認する。

被告らが大正年代より存在したと主張する道路は本件向山線道路とは異なる他の場所にあり(前述のとおり、これは旧道と称される私道である。)、向山線道路は、道路の全くなかつた所に昭和一九年、軍が何らの権限もなく勝手に幅員二メートルの道路を付けたのである。

三、同第五項は認める。

四、同第六項について

昭和一九年に軍が勝手に道路を付けた箇所を、被告らが昭和三六年三月ごろから原告らの反対を押し切り、実力で道路工事をして現状まで拡幅してしまつたのである。

ハ、原告前田徳太郎関係

(請求原因)

別紙目録記載六の(イ)の土地(以下G'ある。

すなわち、G'農家(古くから新島に住んでいた分家以外の本家)三三六戸が明治以前より総有していた入会かやおい地の一部であり、右かやおい地は共有の性質を有する入会権の目的物であつたが(右かやおい地が明治一九年下附されて国家法上も総有として確認されたことなどについてはロにおいて前述しした。)、昭和二三年四月、部落本農家間で分割され個人有となつたが、G'

(答弁)

請求原困は否認する。もつとも、G'(ロ)以下G土地という。)を除く部分が原宣則田徳太郎の所有であることは認める。

G土地は村道第二号向山線が通過しているのであるが、もとこの土地を含む付近の土地は村有のかやおい地であつたところ(かやおい地についても、明治一九年すでに法人としての実体を有していた新島本村に下渡されたものであることはロにおいて述べたところと同一である。)、昭和一六年村会の議決に基づき処分されることになり、実際には昭和二三年に幅員五メートルの村道道路敷地部分(G土地)を控除して(当時すでに右村道ができていたことはロで述べたとおりである。)残余を払下げたものである。

(答弁に対する原告の反ばく)

新島本村の山林の所有関係は、個人有地を除きすべて実在的総合人である新島本村の総有地である。

明治一九年の下附は、本件かやおい地等の山林が以前村山と称され、村民達の採薪、採草等その生活に必須であつたので、この事実に即し下渡しになつたものであつて、「一村または一島の共有として」下附されたものである。明治一九年ごろの法律用語として「一村の共有」とは、村民を構成員とする実在的総合人たる「村」(幕藩制下の村であり、行政村と村民共同体の総合物)の総有であることは争いがないし、新島本村においては大正一二年の島しよ町村制の施行までこの権利関係は変わりがないのであるから、これを行政村の所有物であつたとする被告らの主張は理由がない。本件かやおい地の性格に照らしてみれば、その所有者は実在的総合人の「生活共同体としての村」の側面において、村民であつたといわなければならない。

また、右のとおりこの土地は部落の総有地であつたのだからこれを被告村が村会の議決により分割し払下げるということはあり得ない。

なお、現在の向山線道路は、昭和一九年軍が勝手に道路を新設し、昭和三六年被告村がこれを拡幅したものであることはロで述べたとおりである。

II 所有権の妨害

(請求原因)

一、被告らは原告らのA、B、C、D、E、F、G各土地所有権を否認し、共謀して右土地上に道路を造り、さらには実力をもつて原告らの右各土地に対する立入使用を妨害している。

二、また、被告国は右各土地を通路として使用することによつて原告らの所有権に基づく土地使用を妨害している。

(答弁)

請求原困第一項は争う。

前述のとおり昭和三六年には、被告村において村道である道路部分を改修したに過ぎない。

III  結論

(原告ら)

よつて各原告は被告らに対し、それぞれ本件各土地の所有権の確認および妨害の排除を求める。

第三証拠関係<省略>

理由

I  土地所有権の帰属

イ、原告山下甚之助関係

一、A土地が、かつて山下甚之助の所有であつたことは当事者間に争いがない。

二、 <証拠省略>を総合すれば次の事実が認められ、右認定に反する甲第三号証の供述記載および原告山下竹吉の本人尋問の結果は信用できないし、甲第一号証もこれをくつがえすに充分ではない。

(一) 昭和八年八月、被告村の村議会は新島本村の産業開発のために、黒根港防波堤陸上設備を中心として幅員五メートルの環状線道路の新設(場所によつては従来存する道路の幅員の拡張をする部分、付替をする部分もあつた。)に関する件を議決した。

たまたま当時東京府では農山漁村振興土木事業を行なつていたので、右道路工事はこの事業の一環として東京府からの補助金によつて施行されることになつた。

(二) 右工事に必要な道路敷地は、関係土地所有者の所有土地の地目を宅地、畑、山林に分類し、それぞれの地目ごとに道路用地として提供すべき一人当りの平均坪数を算出し(山林については七歩四合三勺)、右平均坪数までは各所有者が被告村にこれを無償で寄付し、この平均坪数を越える坪数については補償金を支払うことにし、これについては原告山下甚之助を含めた関係土地所有者の了解を得た。

そして右道路工事は、幅員約五メートルとしで昭和九年ごろ完成した。(後に述べるとおり、原告山下甚之助所有のA土地については五メートルになつたのはやや後である。)

(三) 右道路が原告山下甚之助所有A'のであるが、同原告は平均寄付坪数を越える土地については、金銭による補償でなく、同原告住宅前の村有土地二五坪と交換することを被告村に要望し、昭和二年三月、村議会において右交換の件を議決した。

(四) そして、昭和八年当時A土地の一部を含む付近の土地は原告山下甚之助が抗火石採掘業者に抗火石運搬のための軌道敷として賃貸していたので、当初は五メートルの道路幅員には右軌道敷部分も含まれていたが、被告村当局において右抗火一石採掘業者に交渉して昭和一〇年ごろ軌道を約一間移動してもらい、このときに至つて初めて幅員約五メートルの道路が1完成した。

三、従つて、前述の昭和二年の村会の議決に基づいて、原告山-下甚之助に対する村有土地の引渡が完了したか否かはともかくとして、少なくとも被告村は、同原告から幅員五メートルのA土地の所有権を道路敷地として譲渡を受けたことは明白である。

ロ、原告山下甚之助、前田徳太郎を除くその余の原告ら関係

一、<証拠省略>を総合すれば、元来新島本村の水尻(現在一の環状線道路から向山線道路が分岐する地点)から向山方面へ通ずる道路は、現在もなお存在する(一部分は向山線道路と一致している。)、幅員〇、五メートルないし一メートル位の数条の細い山道(いわゆる旧道)が存しただけであつたが、昭和一九年の夏に軍隊が新島に上陸し、向山一帯の各地に陣地を構築した際に、もともと道路のなかつた場所に、工兵隊が主となり昭和一九年中に、B、C、D、E、F、Gの各土地を含む現在の向山線道路を新設したものであることが認められる。(但し、その幅員は現在の右道路より多少狭かつたものと思われる。)

二、 <証拠省略>

(一) <証拠省略>によれば昭和一四年に着手した向山線道路の拡張工事は、従来リヤカーが通行し得ない程度のものであつたのを、幅員二間とする目標であつたというのであり、<証拠省略>によれば、向山線道路は昭和三〇年当時一三号線が延長一、四八三メートル、一四号線が延長一、六五九メートール、二七号線が延長八五六メートルであることが認められる(もつとも、甲第一一号証によれば、昭和三二年一月現在水尻から中山まで延長二、二九七メートルであるとされており、<証拠省略>によれば、昭和二二年当時水尻から向山大峰まで一、五六〇メートルであるとされている。しかし、証人百井男登吉は、同人が計画測量し、これに基づいて拡張工事を行なつた道路は、大峰などよりさらに奥の、ミサイル試射場付近までである旨証言しており、右証言のとおりであるとすれば、道路工事が行なわれたとされる延長距離は、前記認定の数字に近いものと思われる。)から、右幅員と延長距離から考えれば、右拡張工事は被告村にとつては相当の大工事というべきであるが、なぜ昭和一四年当時このような大規模な道路を造る必要があつたのか、しかも<証拠省略>によれば、右工事は昭和一八年まで続いたというのであるが、戦争のぼつ発にもかかわらずなお工事の必要性が存し、そのような工事を続行することが人的あるいは物的に可能であつたのか疑問である。

なお、この点に関し<証拠省略>によれば、右道路は石山から石材および林産物をリヤカーによつて運び出すために必要であり、これは当時多数村民の要望であつたというのであるが、<証拠省略>によれば、昭和一七年には現在向山線道路の通過している付近に石材運搬用の索道が新設され、いわゆる新山と呼ばれる抗火石の石山からも(表山と呼ばれる石山からはそれ以前に索道ができていた。)これにより石材が運搬されるに至つたことが認められるのであるから、右のリヤカーによる石材搬出のための道路拡張の必要性が特に高度のものであつたとも思われない。

(二) <証拠省略>によれば、証人市川仙松は、かつては、前記道路工事は昭和一四年一二月ごろから昭和一七、八年ごろまでかかり、同証人の村長在職中は第一の工事として、石山線といわれる、水尻から石山までの間を行なつた旨明確に述べているのに、その後同証人は当裁判所の証拠調においては昭和一三年一二月から同一五年三月までは被告村の村長であり<証拠省略>、その後は終戦後まで助役の職にあつた(同人の証言)にもかかわらず、昭和一四年から一八年の間に被告村によつて行なわれたとされている向山線道路の拡張工事につき、工事の始期も終期もはつきり記憶していない旨、また、大幅な予算を計上することができなかつたので特殊のケースとして消防団か青年団というような団体に、少ない金で実施してもらうということをしたような気持もするが、はつきり述べるまでの記憶はない旨を証言しているのであつて、工事の最高責任者である村長が在職中の相当な大道路工事につき右のようなあいまいかつ不明確な記憶しか有していないのは不自然である。、

(三) 証人百井男登吉は、右道路工事は被告村が費用を支出したが、消防団か青年団に依頼して施行した旨証言している(前述のとおり、証人市川仙松もあいまいながら同趣旨の証言をしている。)

ところで、証人辻村邦一は、同証人は大正一三年から新島本村の警防団に属しており、昭和一八年ごろはその分団長であつたが、そのころ現在の向山線道路の桜森から下の部分について(原告ら所有土地はいずれもこの部分にある。)警防、団が道路工事を行なつた記憶はない旨証言しており(昭和一五年から同一九年までの同証人の日誌の一部が乙第一二号証の一ないし七として提出されているが、そのような事実があつたとすれば、右日誌に記載があるはずである。なお、証人百井男登吉は、「辻村」も消防団の幹部として道路工事にたずさわつた一人である旨証言しているが、おそらく辻村邦一をさすものと思われる。)、また、同証言と<証拠省略>によれば、昭和一入年二月、警防団が向山の道路工事をしたことが認められるが、同証言によれば、その工事箇所は向山の最も奥の部分にあたり、本件係争部分とは全く離れた場所であるというのである。(しかも、<証拠省略>によれば、昭和一八年一一月一〇日警防団役員会で道路工事に関する打合せがあり、一二日に割当分担区域の打払い(道幅の草木の伐採)を行ない、一八日一日だけ道路工事に出動しておりへ同証人はそれ以外の日は道路工事に関与していないことが認められるから、右工事はきわめて軽微なものに過ぎなかつたのではないかと推測される。)

また、証人百井男登吉の右証言が真実であるとすれば、道路工事にたずさわつた村民は多数いると思われるが、右辻村邦一の証言のほかには、前記百井男登吉の証言の裏付となる証拠は全くない。

(四) 証人岩本竹松は、抗火石会社に勤務していたので、昭和一五年ごろから一七年ごろまでは毎日向山へ登つていたが、その際、道路工事の作業を行なつているのを目撃したこともなく、最近道路工事をしたこん跡に気付いたこともないが、現在の向山線道路と同じ位置に、昭和一五、六年ごろ、リヤカーの通行し得る程度の道路が新たに造られた旨証言しているが、そうだとすれば、右道路は、毎日向山へ登つている同証人の全く知らぬ間に、こつ然として出現したことになり、きわめて奇妙である。

(五) 向山線道路については、環状線道路と異なり、村会議事録、関係土地所有者の道路敷土地の無償提供を承諾する旨の書面(被告らは、道路敷は無償で提供を受けたと主張している。)など、この工事に関する書類が全く証拠として提出されていない。

甲第二号証には、向山線道路など、土地関係の図面や書類は終戦後に軍の命令で焼却したと思う旨の供述記載があるが、証人戸田寅松の証言によれば、焼却した書類は、統計書類、図面を主とし、村会の議事録、名寄帳、反別帳等は焼却していないことが認められ、また、現に乙第一〇号証として昭和一五年九月の村会の議事録が提出されているのである。

(六) なお、その方式および趣旨により公務員が職務上作成したものと認められるから真正な公文書と推定すべき右乙第一〇号証には、、昭和一五年九月の本村会閉会後の諮問事項として、「議員百井市三郎が、『石山道路の改修工事は、急施の要があるから、費用不足の場合は寄付行為等適当な方法をもつて急施せられたい』旨を述べた」旨の記載があるが、右の記載から直ちに、これが被告ら主張の拡張工事に該当するものであるとはいえず、むしろ、「改修工事」というのであるから、二間の幅員にするための拡張工事などという大規模なものではなく、従来存する道路(そして、現に存在する細い山道)の単なる、「改修」に過ぎないものと推認するのが妥当である。そして、現在の向山線道路の拡張工事が現に昭和一四年から進行していたとすれば、さらにその上に従来からの細い山道の改修をすることは不必要なはずである。

(七) 要するに昭和一四年から一八年にかけて(被告村によつて、現在の向山線道路の位置とほぼ同じ場所に存した道路の拡幅等の工事が行なわれたというのは架空のものであつて、現在の向山線道路とは別個の、現に存在する細い山道の軽微な改修工事が行なわれたに過ぎないことが推認される。

三  そして、軍隊が前述の道路新設工事を行なうに際し、原告らを含む関係土地所有者から、道路敷地の所有権の譲渡につき承諾を得たことを認めるに足りる証拠はない。また、仮に軍隊が新設七た道路を昭和三六年に被告村がさらに拡張したとしても、その拡張につき土地所有者の承諾を得たとの主張立証もない。

まして、被告らが主張するような甲山林が原告らに分割されたときすでにB、C、D、E、Fの各土地上に道路が存在し、右道路部分を除外して分割払下げが行なわれた事実については、これを認めるべき証拠は全くない。

ところで、右道路部分を除いて一筆の土地であるB'#39;の各土地が各原告の所有に属することは当事者間に争いがないところ、右のとおり向山線道路が従来道路のなかつた部分に軍隊によつて勝手に新設されたものとすれば、その道路部分であるB、C、D、E、Fの各土地も、道路部分を除く部分と同様に、各原告の所有に属するものと推定すべぎである。

ハ、原告前田徳太郎関係

一、G土地付近一帯のかやおい地は官有地とされていたが、明治一六年に提出された下附願に基づき、明治一九年これが新島本村(その性格は後述)に下附されたことは当事者に争いがない。

そして、島しよ町村制が新島に施行されたのは犬正一二年であり、従つてそれ以前は法人格を有する行政村は存在しなかつたのであるから、新島本村が下附を受けて右かやおい地の所有権を取得するいわれはなく、下附を受けたのは新島本村民であるといわざるを得ない。

<証拠省略>によれば、右かやおい地は古来から村民の家屋の屋根用かや栽培地として村内の一〇個ないし一三個の「かや無尽」と称する団体が理利用してきたものであり、かつて共有地として反別割を賦課した事実もあること、昭和二三年にこれが分割された際、その事務はすべて右かや無尽の連合会において行ない、そめ費用も分割を受ける村民が支出し、分割を受け得たのは古くから新島に居住する家のみであつたこと、分割を受けた者はその代価を被告村等に対して支払つていないことが認められるが、以上の事実に徴すれば、右かやおい地は共有の性質を有する入会権の目的であつたものというべく、その土地所有権は部落のいわゆる総有に属していたものである。)

なお、乙第九号証によれば、昭和一六年、かやおい地の分割につき村会の議決がなされ、東京府知事に対し村有基本財産としてその処分の認可申請がなされていることがうかがえるが、この事実も以上の認定をくつが玄すに足りるものではない

二、昭和二三年右かやおい地が個人所有として分割されたこと原告前田徳太郎がかやおい地の一部であるG'やおい地の所有権を有していなかつたどすれば、昭和二三年の分割の際、道路部分(G土地)だけを被告村の所有に留保したということもあり得ないことになるから、原告前田徳太郎はG土地をも含めて前記土地を所有しているものといわなければならない。

そして他にG土地につき被告村が所有権を取得した原因についての主張、立証はなく、前述のとおり、軍隊が向山線道路をG土地などに新設するに際し、道路敷の土地所有権の譲渡につき所有者の承諾を得たことを認めるに足りる証拠はない。

II  土地所有権の妨害

昭和三六年被告村が向山線道路について工事を実行したこと(それが単なる改修に過ぎないか、拡張工事であるのかはともかくとして)は当事者間に争いがなく、被告国がこれを通路として使用していることは同被告において明らかに争わないからこれを自白したものとみなすべきである。

従つて、被告らは何ら正当な権限なく、また正当な補償もしないで原告山下甚之助を除く原告らの各所有土地の使用を妨害しているものといわなければならない。

III  結論

よつて、原告山下甚之助のA土地についての所有権確認、妨害、排除の本訴請求は理由がないからこれを失当として棄却すべく、その余の原告らのB、C、D、E、F、Gの各土地についての右と同趣旨の本訴請求は理由があるからこれを正当として認容し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 田嶋重徳 定塚孝司 矢崎秀一)

目録<省略>

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